5.1.3.チェルノブイリ原発事故以降のRad-br.(臭化ラジウム)服用の体験報告


1.妊娠女性の放射線疾患

私は妊娠四か月だった。私たちは晩にサウナで知り合い、放射能が降り注ぐことによって起こるかもしれない影響について興奮気味に語り合った。私たちはみな狼狽していた。事件そのものを全く把握できていなかったし、放射能にさらされてもどうすることもできないと感じていたからである。サウナから出て私たちはみな、いつものように当然のごとく湖に入った。体を冷やすためである。湖が汚染されているなんて誰も考えてもいなかった。水を浴びることで私たちはまともに危険な状態にあったようである。その晩さらに私は、二枚貝を踏んで深い切り傷を負い、傷口が開いたまま素足で、汚染された草地を走り抜けた。この地で取ったばかりのヘラオオバコの葉を止血のために頒布し、放射能の蓄積を推し進めているかのようなことをした。出血はそれですぐに止まった。サウナの後、私は爽快になった感じがしていたので、私が被爆しているなんて思いもよらなかった。  

次の朝、気だるい感じで目が覚めた。まぶたや手足が鉛のように重かった。どんなに頑張ってもベッドから離れることができなかった。頭をハンマーで叩かれているような感じがした。上半身を起こすことすらできなかった。朝食をとることなんて考え及ばなかった。ほんの少し動くことも、声を出すことすら大変で、数時間、意識が朦朧とした状態で過ごした。この衰弱状態からそのうち回復するだろうとは全く思えなかった。半分意識がない状態にある中で、実際にものすごい量の血を失った結果、私は苦しんでいるのだ。という考えが襲ってきた。水分を失って衰弱したので、9時ごろChin.を服用した。しかし14時までに思い通りに回復しなかったので、私は間違ったのだと気づかざるをえなかった。実際正しいレメディーならすぐに効いたであろう。  

私はどうしても認めたくはなかった。しかしともかく、Rad-br. 10Mを少なくとも一粒服用する覚悟をした。服用すると正確に10分後にはベッドから離れることができた。すべての症状が消えていた。私は再び論理的に考えることができるようにり、放射線による一種の急性中毒に苦しんでいたことに気づかされたのである。  

私は、放射能によって差し迫った危険を過少評価していた。私も私の赤ん坊も、もはやどうすることもできない危険な状態にいた。私の子も私も、これからずっと放射線障害を持ち続けることになったのである。  

ホメオパシーのレメディーの効果をみずから体験したことがなければ、誰であっても、今述べたことは信じがたいことのように思われるかもしれない。しかしホメオパシーを知っている人なら、似たようなことを経験しているだろう。

奇形児

チェルノブイリ原発事故以降、妊娠中(とりわけ初期)に放射能による肉体への負担を強いられた子どもには奇形の増加が見られる。病院で勤務していた南チロル出身の小児科医が、公開討論がきっかけで報告してくれたのだが、チェルノブイリ以降に際だって奇形が増加しているという。心臓病の子供を持ったドイツ人の両親から聞いたのだが、チェルノブイリ以降に生まれたすべての子どもたちの中には、先天的に心臓に障害を持った子が明らかに増加しているという。  

少なくとも私たちは、次の事実を観察することができた。妊娠中にRad-br.を使って、妊婦だけでなく同時に胎児をもホメオパシー的に保護した場合、放射能との関連性が考えられうる奇形や障害のある子どもを出産した妊婦は一人もいなかった、ということである。

2.パニック、皮膚の発疹、自分が重病だという感覚

チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日、日曜日だった。翌、土曜日、1986年4月27日、17時ごろ、私は、体調が悪く悲惨な状態だった。自分は「重い病気」だと思った。  
重い病気になる理由は何も思い当らず、心理的にパニック状態になった。対応するにもどうすることもできなかった。どうしてそうなったのか、なぜそうなったのか、皆目わからなかったからである。  

私は、レスキュー・レメディーを飲んだ。気持ち悪い状態がしばらくあって吉草滴剤を服用した。数時間後、22時ごろだったと思うが、回復した。夫には何の障害も出ていなかったけれども、おそらく食べたもので中毒を起こしたのだろうと思った。  

月曜日、胸全体に発疹が出た。女友達と一緒に私は、子どものかかる麻疹かしら、と冗談を言った。月曜日は一日中、気持ち悪い状態が再び押し寄せ、火曜日まで続いた。皮膚の発疹は24時間後に消えた。その後、今度は、これまで一度も体験したことのない珍しいのどの「前の部分の」痛みが始まった。  

金曜日にロイと電話で話した。一週間後、私たちはRad-br. 1Mをベルリンで受け取り、土曜の晩にそれを服用した。精神的に非常に緊張し、かなり体力を消耗していた。私たちはレメディーを持っていたので安心していた。レメディーを舌の上にせて溶かした。すぐに緊張感がほどけた。  

最初に、頭蓋冠が上のほうに飛び散るような感じがした。頭の中身がすべてどんどん大きくなっていく。時間は止まっていた。身体感覚は変化し、リゼキル酸(LSD)を飲んだかのようであった。私たちは、自分らがおかしくなっていることに気づいた。私たちは2時間ほどその状態から逃れられなかったが、私は女友達のところでじっとしていればよかった。私たちはもともと何もするつもりはなかった。なぜなら私たちは意思疎通することもできなかったからである。しかし不安ではなかった。あきらめていなかったにすぎない。1時間もすると、私たちはパンを食べていた。夫は、このソーセージ・パンが命を救ってくれたと思ったようだ。実際、食べることでバラバラだった心と体を一つにした。

レメディーが暴力的に私を

私たちは家に向かっていた。車の中で私は感じた。途方もない力が体の中に湧き上がり、自己破壊を試み、そして身体を静かで落ち着いた状態に誘い込んで後片付けをさせているように感じた。こういう感じは、最初は頸椎で、次に頭蓋冠で起こった。しかしこの緊張はすぐに和らいだ。  

日曜日に突然私は死の不安に襲われた。私はベッドに横になり、もはや死ぬのだと確信した。確かに私の精神は、それが全く馬鹿げたことだとわかっていた。だが私の肉体はそうではなかった。そこで私は気が付いた。死の不安やパニックのように、肉体から染み出たものは、私の細胞をとらえて離しはしない、と。  

月曜日にはまた、きわめて決定的な瞬間があった。私は、「神よ、私は何を取り込んだのだ」と心に思った。大パニックによって細胞の中に生じた狂気が爆発しようとしていると感じた。同時に私は、レメディーの力がこのことを認めようとしないことに気づいた。私はいわば証人としてそこに立っていたが、質問もされなかったし、そのために何かをすることもできなかった。この状態は非常に不快で、半時間は十分に続いただろう。  

水曜日には喉の痛みが消えた。しかし残念ながら再発した。そこで私たちは、日曜日にこの症状に対して一粒のレメディーを(Kali-i.であろう)もう一度服用した。今度は意識の変化はわずかで、時間も短かった。一日か二日たって喉の痛みは再び消えて、また戻ってきた。三回目に服用した後も同じだった。

ガン対する不安が残っていた

今や三週目に入ったが、二週目よりはるかに改善した。大半の事柄は再び正常に戻ったかのように見えた。それでもやはりどこかに大きな不安が残っていた。私にとってそれは世界の崩壊のことだった。今存在しているものは、私には底知れない根源から生じた一種の付録にすぎない。しかしすべては本来はかないものである。私のそばに粘土製の鉢が置いてあるが、はじめて国花が芽吹いた。  
(出典:Irene Wagner, Homoopathie Kurier Nr. 2. ,,Die Mittel der Radioactivitat‘‘)

3.意識に対する本質的な作用

大気中の放射能汚染が最大になって三日後、両方の手首から上の前腕の内側に発疹が生じた。この発疹は2・3センチくらいの大きさであった。小さくて無色の引きわり麦が皮膚の下にもぐりこんでいるように見えた。ムズムズ痒くなることもなく、ヒリヒリ痛くなることもなかった。半日すると喉の痛みが出てきて、息苦しくなり、腕にムズムズする感覚が生じた。突然、右の前腕に新し発疹が出た。皮膚の下にあって、小さくて、尖っていて、ラズベリー色の斑点だった。この発疹は内側だけに生じて痒かった。2時間か3時間してこの発疹は消えた。しかし突然私はひどく衰弱消耗した。

3日後、私は、Rad-br.を受け取り、息子(12歳)とヴァーグナー夫妻と一緒にそれを服用した。息子は何の効果も感じなかった。しかし息子以外の私たちには以下に述べるようなことが起きた。  

私たちは頭の中で何か起きていることをすぐに感じた(おそらく2分以内のことであろう)。私の場合は次のようであった。頭の中に「内部」の空間が広がっていくような感じであった。つまり、頭の内部が、中身は空っぽのままで法外に大きくなていくような感じである。その上、空間的な距離そのものが変化していった。すべてのものがいつもよりも離れているようであった。歩いていても、私の足では距離を正確に測定できなかったであろう。それと同時に頭の中で「ブンブン音が鳴っていて、そのざわめきはすべて反響していた。すぐに私は、腕がムズムズして震えていることに気づいた。あたかも、大量の液体がそこを流れ去ってそのエネルギーが目に感じられるようであった。まるで私は全身が目だけでできているように感じた。私の思考は混乱していった。他の人は、私の発する言葉はのろくてとぎれとぎれに聞こえると言っていた。  

口の中に強く金属のような味がした。その間、非常に不安を感じ、両手に冷たい汗をどっとかいた。私はあちこち走り回りたい衝動に駆られたが、そうしなかった。すぐに横になって体を休ませた。どの細胞も震えていることに気づき、突然。不安に思っても無意味であることを知った。どの細胞も自然法則に従っていたからである。また、私の体とRad-br.の相互作用は、私の影響が及ばない領域で地平において起きていることを知った。  

それから1日して私は、体調がかなりよくなったと感じた。症状が何もなかったからである。腕の「引きわり麦のような発疹」は完全に退行した。しかし数日後、足を洗っていると、まるで熱湯を足にそそいでいるかのように感じた。ところがそこには何もなかった。この焼けるような感覚は15秒ほど続いた。このとき皮膚はいつもより冷えているように感じ、赤くなってはいなかった。数日たつと足の感覚はだんだん失われた。足をしっかりつまんでも痛くなかった。その間ときおり、私は、その部分に焼けるような感覚を感じることがあった。晩に風呂に入っていると、足は温度に対してかなり鈍感になっていた。

(出典:Suzanne Smithm, Homoopathie Kurier Nr. 2.)

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