晩年のハーネマン

晩年のハーネマン | ホメオパシー出版 page 26/36

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概要:
晩年のハーネマン リマ・ハンドリー著 澤元亙訳 由井寅子監修 ホメオパシー出版

第一章  ハーネマンの状況24サミュエル・ハーネマンは、一七五五年、ザクセン州マイセンに生まれ、一八四三年、パリで亡くなった。前半生に関しては基本的な情報はそれほど多くないが、よく知られている(1)。苦難に満ちた青年時代(フリードリヒ大王の七年戦争のとき中流階級に属する彼の家庭が貧困に陥ったために)を送り、ついに、彼は、ライプツィヒとウィーンで学んで医師となるべく訓練を受け、一七七九年にようやくエアランゲンで学位を得た。二七歳のとき、薬局の娘のヨハンナ・ヘンリエッテ・キュヒナーと結婚した。結婚生活が始まって数年間は、診療所の開業と、医学書や科学書の翻訳とによって当座の生活費を稼ごうとした。医師として働いていると、当時の医療に対する不満は高まっていくばかりだった。それゆえ良心の呵責を和らげるためにも、できるだけ患者を食事療法と運動のみで治療し、薬の投与量を最小限に抑えていた。しかし一七九〇年に彼は、もはやこのような殺人商売を続けていく気にはなれないと言い放ち、医療活動を放棄した。「義務感からして、苦しんでいる同胞たちに見られる未知なる病的状態を、未知なる薬で治療することがそう簡単に許されてはならない。このようにして自分が、同胞である人間の生命に手を下す殺人者もしくは犯罪者になることを思うと、私はこのうえなく恐ろしかった。あまりにも恐ろしく、憂慮すべきことであったので、結婚してから一年間は医療活動を全く放棄した。…それで私は化学に没頭し、執筆に従事したのである」(2)。彼はこの理想主義に対して高い代価を支払うことになった。しばらく妻と極貧の中で過ごしたが、ついには九人の子どもたちも加わった。そうなっては、翻訳と執筆だけで生活費を稼ぐことはきわめて難しかった(3)。しかしながらまもなくして、彼の容赦のない探究心のおかげで、新しい医学を発見する手がかりが集まり始めた。これによって彼は、自分は悪ではなく善をなし、悪人ではなく善人になることができると思った。医療活動を放棄していたまさにこうした時期のことだった。彼は、エディンバラの医師ウィリアム・カレン