晩年のハーネマン

晩年のハーネマン | ホメオパシー出版 page 29/36

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晩年のハーネマン リマ・ハンドリー著 澤元亙訳 由井寅子監修 ホメオパシー出版

27In Search of the Later Hahnemann吟味し、改良した。以後の三三年間の人生において『オルガノン』を五回改訂した。改訂するたびに新しい発見や洞察を組み込んだ(9)。ハーネマンは経験家だった。つまり、直感的な思想家であるだけでなく、几帳面な観察者でもあった。急がば回れの人だった。ホメオパシーは、一瞬のひらめきで一夜にして生まれたのではない。この驚くべき人物が四〇年にもわたり、研究、実験、検証を積み重ねた結果、少しずつ生まれたものである。それはまた多くの抗争や反対の中から現れたものでもある。その完成はひとえに創始者の忍耐と献身のおかげだ。ハーネマンは、真実だと信じれば、それのために好んで決起するような性格であった。その性格ゆえに、当時の医師たちや薬剤師たちから猛烈な反対があったにもかかわらず、真理を探究し、証明するために休まず研究した。こうした困難な時期にハーネマンはホメオパシーを発展させていたが、その間、彼自身と彼の小さな家族は、ザクセン州の中を街から街へと移動せざるをえなかった。実験し、思索し、著述ができるように、生活のための稼ぎをいつも求めていた。彼は二〇以上のさまざまな場所で生活し、一八一一年にやっとライプツィヒに落ち着いた。この地でようやくハーネマンは、何年間もホメオパシーを実践し教えることができるようになった。こうした状況は、彼の成功によって医学部と薬局の反対が起こると終わった。結局、反対者たちは、一八二一年、ハーネマンをアンハルト・ケーテンという素晴らしい隣国へ強制的に追放したのである( 10)。