晩年のハーネマン

晩年のハーネマン | ホメオパシー出版 page 30/36

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概要:
晩年のハーネマン リマ・ハンドリー著 澤元亙訳 由井寅子監修 ホメオパシー出版

第一章  ハーネマンの状況28同業者との抗争ハーネマンは一〇年間ライプツィヒでホメオパシーを研究し、発展させ、実践と教育も行った。この間、彼は学生と弟子を得た。彼の影響力は依然として強かったが、ホメオパシーは長い間この人物の業績だけで成り立っていたわけではなかった。ホメオパスの数が増えるにつれて必然的に論争や分裂も増えていった。学生たちの中には、ハーネマンの言うことであれば何でも従い、その忠告のままにホメオパシーを忠実に実践しようとする者たちもいれば、ハーネマンの言うことを自分の考えや必要に合わせようとする者たちもいた。ホメオパシーは、その歴史が始まったばかりのころから内部分裂の危機にあった。重要な対立点は、ハーネマンがホメオパシー医学とアロパシー医学を明確に区分けしたことにあった。これによって初期のホメオパスたちの中から反対する者が出てきた。その反対は無理もなかった。新しい医学に取り組んだ人たちは、たいてい古い医学の中で訓練を受けていたからである。多くの場合彼らは、アロパシー的な考え方を捨て去ることは難しいと思った。それゆえ、患者がホメオパシーですぐにうまく治療できなかった場合、彼らはアロパシーの治療に戻る傾向があった。しかしハーネマンは、このことに激怒した。学生たちが次のことを理解していないと思ったからである。すなわち、ホメオパシーとアロパシーは本質的に異なっていること。また、アロパシーの方法は、ホメオパシーの方法にとって補完的ではなく敵対的であること。アロパシーは症状を抑圧すること。そして症状を治癒させるのではなく、よりいっそう内部へと追いやってしまう、ということである。その結果、ハーネマンは、新しい医学の原則を普及させ守るに当たってますます激しくなり、「純粋な」ホメオパシーを強硬に主張したために、本来なら仲間になってくれたかもしれない人々