晩年のハーネマン

晩年のハーネマン | ホメオパシー出版 page 32/36

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概要:
晩年のハーネマン リマ・ハンドリー著 澤元亙訳 由井寅子監修 ホメオパシー出版

第一章  ハーネマンの状況30意味しているにすぎないようだった。しかしほどなくして、ハーネマンの粘り強い実験から次のことが明らかになった。すなわち、レメディーを希釈し振盪するとレメディーの効果が強くなる、と。「超微量投与」という用語は、単に物質がきわめて微量しか含まれていないことを言うためではなく、非常に希釈されて最終的には全く原物質を含まなくても投与するということを意味して使われるようになったのである( 12)。仲間の多くは高希釈されたレメディーが効くとは全く信じられず、レメディーを希釈したとしても原物質が依然として含まれている三Cまでしか使うことができなかった。他方、ハーネマン自身は(進取の気性に富んだ幾人かの仲間たちと一緒に)、三〇Cまで希釈されたレメディーの治癒力を興奮のうちに発見しつつあった。多数の意見では、それは、ばかげた微量の投与であった。物質主義的な医師たちはさらに驚くことになった。ハーネマンが、ホメオパシー科学における非物質主義的な側面を発展させ始めたからである。つまり、彼は、ホメオパシーに常に受け継がれてきた生気論哲学( 13)を明確に示し、慢性病に関する重要な新理論を入念に仕上げることに取り組んだのだ。その理論で彼が示したのは、ほとんどの慢性病が、感染症の抑圧によって、とりわけ疥癬と性病の抑圧によって引き起こされる、ということであった( 14)。ハーネマンはアンハルト・ケーテンという僻地によって守られてはいたが、一八三〇年代の初期のハーネマンにとって生きにくい状況になりつつあった。ライプツィヒの若い仲間たちの中には、ホメオパシーにおける最近の発展に反対を表明する者もいたし、ハーネマンはそうした人々に取り囲まれる事態に至り、不遇な状況の中にいた。妻のヨハンナ・ヘンリエッテは一八二九年に亡くなり、彼自身、気がつくといつの間にか、下の二人の娘、シャルロッテとルイーゼと一緒に世間から少し離れたところで生活していた。