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病気と自然治癒力
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◇ゲームと子供・過度に依存すると『発達障害』にも?◇

近年になって、出版界では『ゲーム脳』といったような言葉が目に付くようになりました。これは発育途中の子供の脳が、ゲーム端末機などを長時間にわたって使うことで一種の「発達障害」を来たしているとみる立場から、その脳の状態を指して命名されたもののようです。
ところで、子供たちの生活のなかでゲーム遊びに費やす時間が増えていることは、かなり前から指摘されていたことです。実際に子供たちと一緒にいれば、ゲームがどれほど子供の日常生活のなかに入り込んでいるか、すぐにわかります。それではなぜ、今頃になってこのような言葉が出てきたのでしょうか?


●子供にとってゲームは毒か?

今では世界中の子供たちが、日本のメーカーが作るゲーム機を欲しがっています。ニン○ンドーとかソ○ーなどといった会社名は、どこの国の子供たちも知っているようです。また、子供だけではなく成人が楽しめるようなゲームソフトが多く発売されています。
かつて「ゲーム」といえば、いわゆる「テレビゲーム」が主流だったわけですが、今では携帯用ゲーム機、携帯電話機そのものが内臓しているゲーム、PCゲーム(オンライン・ゲームも含め)と、ゲームソフトを動かすハコ自体も多様化しています。それでもう、どこにいてもゲーム。寝ても覚めてもゲームという環境が出来上がってしまいました。
子供たち、特に男の子がいわゆるテレビゲームに夢中になり始めた時期には、「子供は外で遊ぶほうが自然だ」という声や「ゲームばかりやっていると、子供の体力が低下する」といった声が盛んに出ていました。しかし、情況がさらに進んで来ると、子供の「ゲーム漬け」を危惧する声は、まったく別の角度から聞こえて来るようになったのです。そこには、いうまでもなく「電磁波の悪影響」を危惧する立場からの声も含まれていました。
しかし同時に、電磁波による影響とは無関係に、ゲームの内容そのものが、子供たちの脳の健全な発育を妨げるという意見が出て来たのです。そういった見解のなかでも代表的な一つは、日本大学の森昭雄教授が『ゲーム脳の恐怖』(日本放送出版協会:NHK出版)という著書で主張したものでしょう(もちろん、森教授の意見がすべてではありませんし、似たようでいて別の見解に立つ人もいます。さらに森教授は、ネット上の掲示板等で多くの人、特にゲーム好きな方たちから批判を受けているようなのですが、その主張はわかりが良い典型的なものなので、ここで紹介します)。

《森教授の見解》

要約すると、森氏は痴呆症(現在は「認知症」と表記されます)の調査・研究を行うなかで、ゲームに熱中している人の脳の状態が「認知症患者」のものに近いという「事実」を突き止めました。そこから、ゲームを毎日のように長時間続けていると、あの「脳のなかの脳」と呼ばれる部分、すなわち、高度な精神活動をつかさどる前頭葉の「前頭前野」が痴呆状態に陥ってしまうと、警告したのです。ついでに、森氏は「ゲーム脳」という言葉をもここで創作しました。
そもそも、森氏がこの研究に至ったのは、認知症患者の「痴呆レベル」を定量化(数値化)することに意欲を燃やしていたからです。この目的を果たすため、ファンクショナルMRIや光センサーなどの新しい機器を利用したところ、首尾よくは行かなかったとのことです。そこで、脳波の動きを測定してみたらどうかと考えたのです。人の脳波には、周波数の低いほうから、δ波(デルタ波)、θ(シータ波)、α波(アルファ波)、β波(ベータ波)があります。さまざまな情況に応じて、それぞれの波が優勢になったり、劣勢になったりします。
ここで試しに、森氏はα波とβ波を測定する脳波計を作り、認知症の患者さんの脳波を測定しました。その結果、健常者の場合と比較して、認知症患者の場合には「α波が優位でβ波が低下している」傾向にあると気付いたのです。そしてまた、長時間ゲームに熱中する人の脳波を測定すると、認知症患者と同じで「α波が優位」だったということです。

【α波の優位とは?】
α波が優位に立つ状態は、いわゆる「リラックス」したときに発生することが多いとみられます。たとえば、水槽のなかで熱帯魚が泳いでいるのを見ているとき、モーツァルトの室内楽を聞いているとき…などが例として挙げられるでしょう。この「アルファ波が優位の状態」をどうとらえるかで、いわゆる「ゲーム脳」の受け止め方も変わって来ます。
森教授は、毎日のように長時間にわたってゲームをする子供は、いってみれば「若くして、脳が痴呆状態で落ち着いてしまうのでは?」と心配しているようです。さまざまな知的訓練によって、発育中の脳を鍛えなければならない時期に、単調なゲームに浸り切っていて「痴呆」の症状に近づいたのではないか。そういう危惧を抱いたと考えられます。ただし、この意見に対する反論も多くみられます。
そもそも、アルファ波が優位に立つのは、相当に精神が集中されているときで(瞑想時なども含まれる)、たまたま認知症患者の脳波の状態と似ているだけに過ぎないという見解などです。反論もまた、さまざまな立場からされていて、脳波の測定法についての疑問や、アルファ波優位についての解釈への批判などが見られます。


●ゲーム自体の意義と『ゲーム脳』の問題は別

アルファ波が優位にあることを「リラックス」と考えるか「痴呆」と考えるか、それ自体の判断が難しいことのようにも感じますが、たとえば「リラックス」状態だと判断した場合に、子供たちの脳が長時間「リラックス」しているとして何か問題があるのでしょうか?
一つには、人間には常に適度なストレスが必要だという通説的見解がありますから、知的ストレスがなさ過ぎることからのマイナスはあるはずです。また「痴呆」状態と判断すれば、若年性痴呆がさらに前倒しされて早い段階で出現するとか、そういう実態が出現しそうな気がします。そこのところは実際にはどうなのか、その部分に絞った調査はされていないようです。
ただし、社会全体では、ゲームに浸りきる子供たちを見る眼は多くの場合、批判的なものです。特に、教育関係者や親の立場から見ると、次のような点で危惧をもたざるを得ないようです。

@体力面での問題(体を使う遊びから遠のく)
A学習面での問題(学習時間がゲームによって削られる)
B情緒面での問題(対人コミュニケーション能力の発達が妨げられる)
Cゲーム機やPC端末などの側で長時間を過ごすことの問題(電磁波の影響)

ゲーム遊びそれ自体は、囲碁、将棋、チェス、軍人将棋、人生ゲーム(?)、トランプ遊び…、昔からいくらでもあったでしょうから、広い意味での「ゲーム」自体に特に問題があるとはいえません。そうなると、脳に対する「有害」の容疑がかかっているのは、結局のところはゲーム機での遊びが、ほとんどのケースで仲間を必要としない単独の遊びであること、多くの場合子供がその遊びに費やす時間が「非常に長い」こと、ゲームの内容が「有害」または「お粗末」であること、ゲーム機器から「電磁波の影響がある」こと、などです。
先に挙げた森氏の主張なども、単純にいってみれば、ゲームの内容がお粗末で単純すぎるものが多い…反射的な行動(手先や指先の瞬間的反応)を試すだけのものに過ぎない…という視点に立っている感じがします。手先の単純な反応を鍛えるだけでは、もっと知的な訓練が要求される時期の脳にとっては、何の役にも立たない(貴重な時間を無駄にしている)、という主張でしょう。
こういった森氏の主張がどの程度の科学的裏づけをもっているのか、彼の意見に反対する側の人たちにすればまだ明確にはなっていないのかもしれません。しかし、幼児や学齢期の児童の知的面の発達や情緒面での成長に悪影響を与える一つの可能性があるという点で、ヒントは与えています。


●「ゲーム好き」な子供は危険なのか? …《戦場で喜ぶ米兵の姿》

数か月前のテレビの報道番組で、イラクにいる米軍兵士が戦闘中に『戦闘はゲームみたいで楽しい。アドレナリンが出まくってるよ』と口にしながら、装甲車の上から敵に機銃を撃ち続ける姿がニュース画面で流れました。彼が熱烈なゲーマーであったのかどうかわかりませんが、現実の戦闘と、過去に経験したゲームの画面がダブっていたのは確かでしょう。
しかしここで、「ゲームのような仮想現実と生の現実との区別がつかなくなる危険性」などという話をしても、大きな意味はないと思います。なぜなら、この兵士にしても数か月の後には、ゲームのプログラムには入っていない現実を目の当たりにすることで、生身の戦争というものを理解せざるを得なくなるはずだからです。

ゲームのなかにはまず出てこない多くの不安定要素が、実際の戦場にはあるでしょう。敵に内通している者がいるかもしれません。思いもよらないところに爆弾が隠されているかもしれません。友軍から誤射されたり誤爆されることも、戦場では多いと聞きます。誰しも強いから勝てるとは限らないのです。ましてや、自分が生きて返れるかどうか、まったくわかりません。むしろ問題なのは、仮想現実と生の現実の区別がどうの…というより、やはり対人コミュニケーション能力が育たないという危険性の方でしょう。それは、本人にとって命取りになる問題でもあります。
実際の戦争は、ただ撃ち合うだけではありません。日本の戦国時代や、中国の古代「春秋戦国時代」などは典型的ですが、大きな紛争の場では、表の戦場だけでなく、その影で進められる諜略とか裏取引の要素が非常に多いはずです。たとえば豊臣秀吉や明智光秀は、こういった策謀に秀でていた武将と言われます。このような「知略」とも呼べる能力は、ゲーム画面ではまず身につきません。なぜなら、人のこころの動きを読む能力、人心を動かす能力が必要だからです。これは武将や兵士だけに言えることではありません。現代に生きるサラリーマンも、自営業者もみんなそうなのです。
そして実際のところ、多くの企業が今や入社試験で「適正検査」を重視しています。試験にはいろいろな手段があるようですが、その主要な目的の一つは、対人コミュニケーションの能力が欠如した学生をはじき出すことと見られます。どれほど有名な学校を卒業していても、コミュニケーション能力のない人は採用しないという会社が増えているのです。

子供たちの引き起す事件や、20代の若者が引き起す凶悪犯罪が報じられるたび、テレビ番組や新聞紙面には「若者の狂気」とか「キレやすい子供たち」という文字が出現します。いったい、いつの時代に比較して、現代の子供はキレやすいと判断できるのか、現代の若者は狂気じみているといえるのか、難しい問題ではあります。
たとえば戦国時代や、戦争の多い時代に生まれた「キレやすい若者」は、平和な時代とは違って目立たない存在かもしれません。狂気じみた攻撃的な若者は、あるいは戦の場では「猛者」と評されるかもしれません。また「武門の誉れ」と尊敬を集めるかもしれません。もちろん、その人物に判断力や思考力が全然ないということなら、いくら「武門」でも役には立たないでしょうが…。

たとえば、ゲームが好きで熱中する子供は、ゲームがなければ昆虫採集に熱中して、ファーブルのように本を書くかもしれません。あるいは、ゲーム好きから本格的にプログラムの勉強をするかもしれません。しかし、ただ市販のゲームで時間を潰すだけなら、本人も貴重な人生の無駄遣いをしていたことを将来悔いるかもしれません。それは誰にもわからないのですが、大切なことは、ゲーム以外にも面白いものはいくらでもあるということを、大人たちが教えることでしょう。
そうでなければ、若者たち自身が「人生はゲームのようなものだ」と錯覚を起し、一か八かの勝ちだけを求める生き方に流れる人が増えてくるかもしれません。人生は80年という長丁場であって、ゲームのように勝ち負けの結論ははっきりとは出ないということも教える必要があるでしょう。


●親の役割は実に大きい

近頃の子供たちの表情、若者たちの立ち振る舞いを見て、「気持ち悪い」とか「怖い」とか口にする大人が増えています。多くの場合、大人たちと彼らとの間で、感情や意思のやり取りが成り立たないという理由があるためではないかと思います。実際に、同じ世代だけで通じる話題、仲間うちだけで通じる言葉しかもてない若者が増えています。これはコミュニケーション能力が育っていないことの証左でしょう。また、一流と呼ばれる大学でも、専門的な論文が読めない学生、論文が書けない学生が多くなっているという記事もあります。これは、思考力の育成がなされていないことの証左でしょう。このような現実は、たとえば「ゆとり教育」の弊害など、さまざまな原因が重なり合って生まれたもので、決して「ゲーム」だけのせいではないはずです。
ですから、ゲームばかりやって子供の頭が悪くなったと考えるより、もともと、不幸にして知的好奇心を満たすための環境が整っていない家庭に育った子供たちが、ゲームにはまりやすいと考えるべきでしょう。そうであるなら、ゲーム自体をより高度で、さまざまな好奇心を刺激できる内容のものにして行くとか、工夫はあるはずです。現実に、市販されているゲームには、単純なものから複雑なものまで実にさまざまな内容が揃っています。うまく利用すれば知的訓練になるものも多いはずです。しかし、子供の好きにさせていたら、もともと知的好奇心の弱い子供ほど、内容のお粗末な(攻撃的で単純な)ゲームにはまり込んでしまう可能性が大きいでしょう。そういう子供には、むしろ考えることの楽しさを教えるゲームが必要なはずです。そうすれば、ゲームだけにとどまらず、読書にも学校の授業にも喜びを見出すことができる子になれるでしょう。それができるかどうかは、やはり家庭での親のあり方にかかっています。

いつの時代も、若者たちは年長者から批判されるものです。その批判を受け止め、また反発するエネルギーで人間は成長するという一面もあります。しかし現在、企業のなかでも先輩が後輩を育てる余裕をなくしています。人が少ないので、みんな自分のことで精一杯なのです。これは、もちろん少子化もあります。また短期的な決算数字を良くすることで、自己保身を図る経営者が急増したことも一因です。彼らは何かというと「新規採用抑制」で、自分たちの世代が高度成長のお陰で「実力主義」とは程遠い人生を歩んで来たことを忘れているかのようです。
こういった状況下では、先に挙げた「コミュニケーション能力の欠如」という点は、若者たちにとって致命的なものになります。まともな人間関係をもつコミュニケーション能力がなければ、まともな職業人になれません。まともな職業人になれなければ、世間から相手にされません。堂々巡りの悪循環なのです。

かつて日本の「カイシャ」は「人生道場」という側面すらもっていました。しかし今や、コミュニケーション能力を含め、一定能力以上の水準に達しない若者は、貴重な正社員労働力としては認められず、使い捨て労働者として扱われる時代です。誰も育てる余裕がありません。だからこそ、親たちの責任は重大なのです。親はしっかりと、子供のための環境を作ってやらなければならないのではないでしょうか? そして今回の『ゲーム脳』も、そうした学習環境の問題の一つとして考えるべきでしょう。
ですから大きな問題は、ゲームのために学習時間が減ってしまうことよりも、ゲーム遊びの誤用・乱用により、他者への関心、社会への関心が育たなくなること、知的好奇心や対人コミュニケーション能力が育たなくなる可能性があることです。これは確かに、一種の発達障害と呼べるでしょう。そのような傾向をもった人物は、結局のところ、感受性が欠如した、知的水準の低い『ケータイを持った類人猿』になるのかもしれません。自分の子供を類人猿にしないために、親たちは今こそ、自分自身の生活環境も含めて、子供の学習環境を考える必要があります。同時に、子供のコミュニケーション能力を芽生えさせるための工夫も、とても大切です。

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